「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1−2)
折原 浩
2004年7月27日
そこで、その「推測の根拠」を検証しよう。(n)は、羽入書の区分けである。
⑴ヴェーバーは、第一章第二節冒頭のフランクリン論で、『自伝』から『箴言』22: 29を引用し、そこの「わざmelā’khā」(フランクリン父子ではcalling)が、ルターではGeschäft、「比較的古い英訳諸聖書
die älteren englischen Bibelübersetzungen」ではbusinessと訳されている、と注記している(GAzRS, I, S. 36, 大塚訳、50ぺージ、梶山訳/安藤編、97ぺージ)[1]。これについて羽入は、カトリック教徒が1610年に北フランスのドゥエで刊行した英訳旧新約全書では、ここがbusinessではなくworkeと訳されている事実と、1582年に同じくカトリック教徒がランスで刊行した新約(のみの)版にはヴェーバーが第[6]段落で言及している事実とを挙げ、大仰に、こう結論づけている。「ヴェーバーは、『箴言』22: 29を、すなわち、『倫理』論文全体の彼の立論にとって最も肝心な部分の論拠を調べる時にはカトリック訳を参照せず、それに比べればどうでもいいとすら言える『コリントT』7: 20を調べる時にはカトリック訳をきちんと調べた、…。…これは到底考えられぬほどに矛盾に満ちた行動である」(37)と。
いかにも羽入らしい、些事拘泥で針小棒大な難詰ではある。ところが、羽入書の60-1ぺージに掲げられている『箴言』22: 29の訳語一覧表を見ると、1535年の「カヴァーデイル訳」から「ジュネーヴ聖書」(1587年版)までの11種ではすべてbusiness と訳されており、ただ1610年のドゥエ版だけが、唯一例外的にworkeと訳出しているにすぎない。翌1611年の「キング・ジェイムズ欽定訳」もbusinessを踏襲している。
翻って「倫理」論文の件の注記を原文で読むと、羽入が邦訳をそのまま引用して、ヴェーバーが「『古い英訳聖書では』と総称的に述べた」(37)と決めてかかっている箇所で、ヴェーバー自身は
älterと比較級で語っており、16/17世紀で分けて16世紀の諸聖書をälterで括ったとすれば、1610年ドゥエ版の例外を無視したわけでもない[2]。また、フランクリン父子がcallingで読んだ箇所は「比較的古い英訳諸聖書ではbusinessとなっている」と注記するさい、ヴェーバーは意味上、ルターにおいてもGeschäftであったように、「比較的古い英訳諸聖書では[プロテスタントの諸聖書でも、まだ]businessであった」という不一致/対照を主として考え、これに力点を置いていたにちがいなく、反面、カトリックのドゥエ版は考慮外に置いてとくに断らなかった、あるいはひょっとして看過したとしても、「『倫理』論文全体の彼の立論にとって最も肝心な部分」にかんする致命的な瑕疵とはいえまい。そう決めつけるほうこそ、かえって、件の注に出てくるフランクリン父子のcallingと、第一章第三節第1段落注3第[5]段落で取り上げられるルターのGeschäftとの当然の不一致を「アポリア」に仕立て、両者が語形で直接一致しなければ「倫理」論文の「全論証構造」が崩壊するという奇想天外な思い込みと、およそいかなる資料も、価値関係性のいかんにかかわりなく、「原典を手にとって調べなければならない」という「過同調」[3]のパリサイ的衒学癖(軽重の判断がつかない「なにがなんでも一次資料マニア」)を露呈しているのではなかろうか。
⑵ヴェーバーは、第[6]段落中で、「1534年のティンダル訳die Tindalsche von 1534」と「1557年のジュネーヴ版 die Geneva von 1557」(GAzRS, I, S. 69, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)とが『コリントT』7: 20 のklēsisをstateと訳出している、と指摘している。羽入はここに挑みかかって、なんのことか「1560年の『ジュネーヴ聖書』」(39)を持ち出し、そこではstate ではなくvocationと訳されているという。というのも、
⑶羽入によれば、ヴェーバーの主張は「それ自体としてみてもすでに奇怪」(39)で、「『ジュネーヴ聖書』は1560年に初めてこの世に現われた」(40)のであり、「ヴェーバーのいう『1557年のジュネーヴ聖書』など有り得ない」(40)のだそうである。
羽入のこの言い回しからは、なにか正式に『ヴュネーヴ聖書』と名づけられた版本があって、それが「1560年に初めてこの世に現われた」かのような印象を受ける。ところが、「ジュネーヴ聖書」とは、じつは後世につけられた「あだ名」ないし「通称」にすぎず、「この聖書そのものにそう書いてあるわけではな」く、ただ「発行場所としてジュネーヴと記載されているだけである」(田川建三『書物としての新約聖書』、1997年、勁草書房[以下、田川書]、557ぺージ)という。メアリT世の迫害を逃れてジュネーヴに亡命したウィリアム・フイッティンガムが、一方ではカルヴァンやド・ベーズによる仏訳「ジュネーヴ聖書」の進捗をにらみ、他方ではティンダル訳を改訂し、古典語学者たちの協力もえて、初めに新約部分の英訳を完成し、ジュネーヴで刊行したのが「1557年のジュネーヴ版」ないし「ジュネーヴ聖書1557年版」である。これに旧約部分を加え、三年後に同じくジュネーヴで刊行したのが「1560年のジュネーヴ版」ないし「ジュネーヴ聖書 1560年版」にちがいない。なるほど、専門家の間で「厳密には、ジュネーヴ聖書というと1560年の旧新約全書を指」し、「1557年のものは、ジュネーヴ新約聖書などと呼ばれている」(田川書、同上)そうである。しかし、「倫理」論文は、聖書史の専門文献ではないし、第[6]段落のこの箇所で定点観測点として取り上げられ、訳語が問題とされるのは、新約の『コリントT』7: 20であるから、フィッティンガムらによる新約の英訳が「初めてこの世に現われた」「1557年のジュネーヴ版」のほうをとり、そう明記して引用するのに、まったく問題はないはずである。むしろ、「ジュネーヴ聖書」を正式名称と決めてかかって1560年版だけに限定するほうが、ヴェーバーを「奇怪」、(つぎの⑷では)「事実誤認」「誤り」に陥れる伏線、「ためにする議論」で、それ自体としても狭隘で、「過同調」の衒学癖といえまいか。
⑷羽入は、1557年版と1560年版の表紙の写真を掲げ(38-9)、それを見ても正式の表題には(田川のいうとおり)「ジュネーヴ」との表記は見られないにもかかわらず、前者を「ウィティンガム訳新約聖書」、後者を(こちらには訳者名を記さずに)「ジュネーヴ聖書」と称して、後者だけが『ジュネーヴ聖書』であるかに見せる。そして、「ただし、ともに“AT GENEVA”と書いてあるので、それだけにとらわれると確かに間違えやすい。ここから裏書きされるのは、ヴェーバーが現物の『ジュネーヴ聖書』を見たことがない、ということである」(40)と断ずる。さらに、
⑸羽入は、これを「事実誤認」(40)と称し、この「事実誤認」をヴェーバーがいかなる二次文献から引き継いだのか、と問う。そして、1893年に刊行され、ヴェーバーも参照が可能であったOEDの前身A New English Dictionary on Historical
Principleの第二巻 C項目に“1557
Geneva, in the same state wherin he was called.”という用例があるのを引き、「ヴェーバーは、このOEDの誤りを踏襲した可能性が高い」(40)とする。ちなみに、羽入によれば、1989年に出たOEDの現行第二版でも、「この部分の記載は……訂正されておらず、そのままになっている」(41)という。
しかし、この「1557年ジュネーヴ版」という記載は、上記のとおり、なんら「事実誤認」でも「誤り」でもなく、「訂正」の必要もないであろう[4]。したがって、ヴェーバーがその記載を引き継いだとしても、誤りではない。また、ヴェーバーがOEDに依拠したこと自体の意味については、後段で述べる。
⑹最後に、羽入は、ヴェーバーが第[6]段落で引用している『コリントT』7:
20の用例は、唯一の例外を除き、ことごとくOEDに記載されている用例と一致するとして、その例外を取り上げる。それは、「1539年の公認クランマー訳die offizielle Crammersche
Uebersetzung von 1539が[ティンダル訳の]stateをcallingで置き換えたのにたいして、1582年のカトリックのランス聖書と、エリザベス時代における宮廷用の英国国教会聖書[複数]die höfischen anglikanischen Bibeln der
elisabethanischen Zeitが、ふたたび公認ラテン語訳聖書ヴルガータに倣って、vocationに戻っているのは注目すべきことである」(GAzRS, I, S. 69, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)とある箇所の「エリザベス時代における宮廷用の英国国教会聖書」のことである。なぜここが問題になるのかといえば、この聖書[複数]がヴェーバー独自の調査の結果であるとなると、すべてOEDに依拠したという羽入説が崩れるからであろう。そこで羽入は、この反証潰しにかかる。
羽入によれば、エリザベスT世時代(1558〜1603)、「新たな聖書は三種類しか出されていない」(42)という。ところが、羽入は、その根拠を示していない。じじつ、丸山尚士の調査によれば(本コーナー掲載の丸山第二寄稿参照)、この期間には、羽入が取り上げている三種以外に、ウィリアム・ファルクの『ファルクによる注釈付き新約聖書』が1589年に公刊されている。これは、カトリックの「ランス聖書」を批判する目的で、それと1568年の「司教(英国国教会では主教)たちの聖書 Bishops’ Bible」(後述)とを対比する形で収録し、前者のカトリック的注釈をファルクが逐一論駁したものという。
したがって、根拠の挙示を欠く羽入の「三種限定」それ自体が疑わしい。ところが、羽入は、この疑わしい前提のうえに乗って、つぎのような推測をたくましくする。まず、ランス聖書は、ヴェーバーが並記しているから、該当しない。つぎに「主教たちの聖書」は、『コリントT』7: 20をcallingと訳しているから、これも違う。とすると、「三種限定」を前提とするかぎり、エリザベスT世時代に出版された聖書として残るのは、1560年の「ジュネーヴ聖書」しかないという。そして、これはなぜか『コリントT』7: 20をvocationと訳している[5]。そこで、羽入は、欄外注でカルヴァン派色を濃厚に打ち出したこの「ジュネーヴ聖書1560年版」をヴェーバーが「エリザベス時代における宮廷用の英国国教会聖書」と取り違え、第[6]段落の上掲引用箇所にそう記したのではないか、と推測し、この推測でヴェーバーの「錯誤」「非常識」をこれまた推測し、あげくのはてに「専門家による嘲笑」の対象に据えようとする。
「……この恐るべき『ジュネーヴ聖書』を『エリザベス女王時代の英国国教会の宮廷用聖書』と呼び、またカトリック聖書と並べて『ヴルガータにならって再び“vocation”に戻っている』などと称するのはほとんど考えがたい錯誤なのであるが、あるいはひょっとするとその可能性はあるかも知れぬのである。
OEDの間違いをそのままに受け継いだヴェーバーにとっては、ウィティンガム訳新約聖書が『ジュネーヴ聖書』なのである。そうすると聖書が一つ余ってしまうこととなる。1560年に出された聖書が一つ余ってしまうのである。ヴェーバーがどこか他の本で、出版年代は分からぬものの、エリザベス朝[sic]時代に新たな聖書が三冊出されたことは知っていたとしよう。しかもその一つ余る聖書は、ウィティンガム訳新約聖書とは異なり、『コリントT』7: 20の問題の箇所を確かに“vocation”で訳してくれており、その限りではあたかもヴルヴータに戻ったように見えたとしよう。こうしてカルヴァン派の影響を欄外注で最も強く打ち出した恐るべき『ジュネーヴ聖書』を、『エリザベス女王時代の英国国教会の宮廷用聖書』と呼ぶという錯誤が生じたのではなかろうか。カルヴィニスト達が作った『ジュネーヴ聖書』を、カトリックの作った『リームズ新約聖書』[『ランス聖書』の英語読み]と並べ、双方とも『ヴルガータにならって再び“vocation”に戻っていることは特徴的である』などともし述べていたとしたら、ヴェーバーの非常識もはなはだしいこととなるが。(もちろん、ここで英訳聖書の専門家達が腹を抱えて笑っている姿は筆者にも思い浮かぶ……。)」(42-3)
推測で他人を批判するのも、その推測を仮説として立証しようというのであれば、(立証後に繰り延べるほうが望ましいにせよ、早まって筆を滑らせても)容認できないことはない。しかしまず、そうした推測の内容が、たとえばこのばあいのように、「ジュネーヴ聖書1560年版」と「英国国教会の宮廷用聖書」との混同というような「悪ふざけ」の水準にまで堕ちると、それだけで説得力は無にひとしくなる。しかも、推測に推測を重ねてそうした「批判」に上り詰めながら、それを仮説として検証するほうは怠るとなると、その批判者は、相手と理非曲直を争おうとしているのではなく、相手を非難すること自体を目的とし、そのためには推測であれ邪推であれ手段を選ばない、との印象を引き起こさざるをえない。こういうばあいにはむしろ、そうまでして誹謗中傷に筆を滑らせる批判者の動機はなにか、と問い返されることになろう。
羽入は、さきほど「詐欺説」から「杜撰説」に転じたばあいと同様、ここでも、これほどまでに「死人に口なし」の「言いたい放題」を書き連ねておきながら、「ただしこの想定もヴェーバーが聖書の数を複数形で記していることを考えに入れると、成り立たぬかも知れぬ」(43)と逃げに転じ、「いつもそうであるが、追究すれば追究するほど、ヴェーバーの言っていることは意味不明で分からなくなる。ヴェーバーの叙述を追跡し、いかなる英訳聖書を彼の曖昧な記述が指そうとしていたのかを最終的に確定することは、したがって筆者にはこれ以上はできなかった」(43)として、推測仮説の立証は回避してしまう。「追究すれば追究するほど、……意味不明で分からなくなる」のは、自分の「追究」不足、読解力不足のせいではないか、とはつゆ疑わない。「最終的に……これ以上は」「確定」「できなかった」とは、以上の推論で「半ばは論証が尽くされた」との自己主張らしい。
むしろ羽入の関心は、sachlichに(対象に即して)事実を確定することよりも、推測に推測を重ねる延長線上で、なんとかヴェーバーを「専門家達が腹を抱えて笑」う対象に据え、「笑われる」かれの姿を想像して「溜飲を下げる」、(「道徳上の叛乱」ならぬ)「学問上の叛乱」劇に向かっているように見える。遡って⑴〜⑹の「推論の根拠」を再検討すると、@「ジュネーヴ聖書」を正式名称であるかに見せて1560年版に限定し、1557年版は「ジュネーヴ聖書」ではないと断定し、なにか別物めかして「ウィッティンガム訳新約聖書」と呼び替え、「事実誤認」と「混同」(の一方の項)とを創り出しておいたのも、A消去法によりヴェーバーの「ほとんど考えがたい錯誤」「はなはだしい非常識」を導き出す前提として「エリザベス女王時代に公刊された聖書は三種のみ」との制限条項を(根拠も挙げずに)独断的に持ち込んでおいたのも、Bこの制限条項をヴェーバーも「どこか他の本で読んで知っていたとしよう」との推定を設けたのも、ことごとくこの「学問上の叛乱」劇ハイライトを演出する伏線であり、小道具であったようである。ちなみに、ルサンチマンによる想像上の「専門家」はどうあれ、現実の本物は、自分の専門的研究実績がいかに僅少か、ひとたび自分の専門から離れるといかに不得要領か、よく心得ていて、それだけつねに謙虚であろうから、かりに非専門家の思い違いに直面しても「腹を抱えて笑」うようなことはしないであろう。
筆者はもとより、英語聖書史の専門家ではなく、遺憾ながらこの問題に学問的な確信をもって答えることはできない。しかし、ヴェーバーの「言語社会学」的比較語義史のパースペクティーフから演繹して、専門家の教えを乞うに足る仮説はいちおう立てられるように思う。筆者は、ヴェーバーが「宮廷用höfisch」と明記している点に注目したい。つまり、「エリザベス時代の英国国教会宮廷用聖書[複数]」とは、公刊された聖書ではなく、エリザベスT世が、国教会の統一公認聖書の編纂をめざしながら、数種つくらせて宮廷で使って試していた、いわば宮廷私家版の聖書ではあるまいか。
「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的条件を重視するヴェーバーの観点から見ると、この時代の聖書翻訳事業は、ウィクリフ(ロラード)派の伝統を引き継ぎながらも、やはり、教皇庁からの独立をめざす王室の宗教政策に(肯定/否定両面で)左右されるところが大きかった。前稿でも触れたとおり、この期におけるテューダ朝の@ヘンリ[世(在位1509〜47年)、AエドワードY世(1547〜53)、BメアリT世(1553〜58)、CエリザベスT世(1558〜1603)は、国王とはいえ、あるいはむしろ国王なるがゆえに、宗教政策しかも聖書の翻訳になみなみならぬ関心を示し、D次期スチュアート王朝の初代の王で「キング・ジェイムズ欽定訳」事業をなし遂げたジェイムズT世(1603〜25)にいたっては、「神学論争を好んで……ほとんどすべての言語で書かれた聖書を研究するようになった」(ベンソン・ボブリック、永田竹司監修、千葉喜久枝・大泉尚子訳『聖書英訳物語』、2003、柏書房[以下、ボブリック書]、166ぺージ)と伝えられている。カトリックに回帰してプロテスタントに血の弾圧を加えたメアリT世を除き、かれらの念願は、王室にとって危険なプロテスタントの教理とくにカルヴァン派の予定説は斥けると同時に、権威ある国教会公認統一聖書を編纂して、イングランドの「すべての教会に据えつける」ことにあった。この念願は、ジェイムズT世により、六班51人の聖書学者を動員して成った「キング・ジェイムズ欽定訳」(1611年)でひとまず叶えられることになるが、そこにいたる同質の先駆けは、ヘンリ[世治下におけるクランマー監修のカヴァーデイル改訂訳(組版大型)「大聖書Great Bible」(1539)、あるいはエリザベスT世治下の「主教たちの聖書」(1568)として日の目を見ていた。しかしそれらはいずれも、「ティンダル訳」(1526, 1534)と「ジュネーヴ聖書」(1557,
1560)に、質的水準においても民衆への普及度においても遠くおよばず、たえず改訂が要請されて、「キング・ジェイムズ欽定訳」にいたるのである。とすると、王室と国教会上層部におけるそうした利害関心の線上で、なにかにつけて折衷的に独自色を出したがるエリザベスT世が、「宮廷用私家版」聖書を複数つくらせて、宮廷なりの模索と試行錯誤を進めていた、ということも、ありえないことではないと思われる。そして、そうした宮廷用私家版は、公刊されなかったために教会史/聖書史関係の資料や叙述からは漏れていたのにたいして、王朝史/宮廷史を含むイングランドの政治史にも通じていたヴェーバーが、独自に調べたか、あるいは同僚専門家から聞いて、それら私家版聖書類では『コリントT』7: 20のstate がvocationに「戻っている」と知り、注3第[6]段落にその旨記したのかもしれない。
もとよりこれは、一門外漢による即興の一仮説にすぎない。ただ、「どうせ仮説なのだからどっちもどっち」と即断されては困る。一方は、「エリザベス時代における英国国教会の宮廷用聖書」と「ジュネーヴ聖書」(1560年版)との「混同」という荒唐無稽な(「明証性」を欠く)仮説を、推測と独断から導き出し、ヴェーバーにかぶせて、「学問上の叛乱」劇を楽しむだけで、当の仮説の「妥当性」の検証からは身を翻している。他方は、ヴェーバーの注3の叙述から、語義の形成と変遷を「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的条件のもとで捉える「言語社会学」的比較語義史の研究方針を引き出し、これを16世紀イングランド史に演繹/適用し、上記のとおり一定の「明証性」と「妥当可能性」をともなう仮説を導き、その検証にそなえている。この検証そのものは、いまのところ筆者には無理で、専門家のご教示を仰ぐほかはない。ただ、仮説は仮説でも、どちらのスタンスが学問上生産的であるか、「明証的」かつ「妥当」な真理の発見に通じるか、については、読者が賢明な判断をくだされるであろう。
羽入は、以上のような「根拠」で、ヴェーバーが英訳諸聖書を見ず、「エリザベス女王時代の英国国教会の宮廷用聖書という意味不明な唯一の記述」(44)を除き、他はすべてOEDの用例に依拠し、そこに記載のない『シラ』11: 20, 21の用例は調べずに“calling”にかんする議論を組み立てたとして、これを「情けない」「杜撰」(44)と断じている。そして、「広辞苑の用例だけに依拠してある語とある語との影響関係を論じ、それを論文にまで仰々しく書く国語学者が我が国にいるであろうか。いるとすればそんなものは国語学者ではない」(44)と決めつけている。
しかし、この言い回しは、比喩を三重に間違えている。@大辞典OEDは、広辞苑のような中辞典とは効用を異にするし[6]、ヴェーバーは、A「ある語とある語の影響関係」を論ずるB「国語学者」ではない[7]。少なくとも、ある語Berufが「唯『シラ』回路」を伝って(プロテスタントの優勢な)他国語に伝播し、Beruf相当語の波及をもたらす、といった「言霊・呪力崇拝」に陥り、「語と語の影響関係」をもっぱらその平面で扱う、羽入の考るような「国語学者」ではない。語義の創造と普及とを、「言語ゲマインシャフト」のなか、あるいは間で、翻訳者たちが置かれている歴史的・社会的諸条件に即し、かれらによる主体的な「思想」「概念」形成との関連において捉え返そうとする歴史・社会科学者であり、(ヴェーバー自身はこういう語は使っていなかったと思うが)「言語社会学者」といってもよかろう。そうした「言語社会学者」にとり、母国語ではない外国語の大辞典、しかも歴史的に用例を蒐集し、分類して挙示しているOEDのような大辞典には、研究目的に照らして重要な、独自の利用価値があろう。羽入は、このばあいにも、そうした価値関係や効用にはいっさいおかまいなしに、頭から「辞典に依拠して原典を調べないとは『情けない』『杜撰』」と決めつける。これは、いかにも杓子定規な「パリサイ的原典主義」であり、そのじつルサンチマンに発する「過同調」のスコラ的衒学癖、例の「なにがなんでも一次資料マニア」というほかはないであろう。
では、このばあい、OEDは、具体的にどういう効用をそなえ、ヴェーバーはなぜ、大幅にOEDに依拠したのであろうか。
ここで、プロテスタントが優勢な諸民族の言語におけるBeruf相当語をいまいちど思い起こしてみよう。そのうち、オランダ語のberoepは、呼ぶという意味の動詞roepenの語根roepに前綴 be-が付けられた語形で、ドイツ語のrufen, Ruf, Berufから容易に類推できよう。ルター派による『コリントT』7: 20の訳語をそのままオランダ語に移せば、語形上も無理なく「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語beroepが誕生するにちがいない。ところが、ヴェーバーが挙示している語彙にかぎっても、デンマーク語のkald, スウェーデン語のkallelseはもとより、英語のcallingも、ドイツ語/オランダ語とは語根を異にする(おそらくギリシャ語kaleōに由来する)語で、それがそもそも(「呼ぶ」という原義に加えて)「神の召し」と「世俗的職業」との二義を併せ持つBeruf相当語なのかどうか、(「ヴェーバー研究者」の「悪い癖」で「ヴェーバーがそういっているのだから多分そうなのだろう」と受け取り、そう決めてかかりやすいが)じつはけっしてそれほど自明ではない。少なくとも、ヴェーバー自身にとっては、そうではなかったであろう。というのも、かれは、自国語のドイツ語について、「トポス」の注においてではあれ、あれほど骨折って、「発音はBerufと同一ないし類似の語」が純宗教的な「招聘」の意味に加えて「世俗的職業」の意味を併せ持つようになったのは、ルターないしドイツ語のばあいには『シラ』でBerufがergon とponosに重ねられたときから、というふうに始源を突き止め、立証していた。そのかれであってみれば、他の「言語ゲマインシャフト」の翻訳者たちが、別の語根をそなえたcalling系統の語を、一方ではルター訳の影響を感知し継受しながらも、オランダ語版のようにBeruf をそのまま自国語に移し入れてすむわけではなく(あるいはオランダ語のばあいにもやはり複雑な経緯があったかもしれない)、他方で、それぞれの歴史的・社会的諸条件のもとで、いつ、いかにしてBeruf相当語に鋳直したのか、という問題に、まさに問題として想到しないはずはなかったろう。そしてヴェーバーは、本来ならば、この問題の研究を、ドイツ語圏/ルターについては自分が実施した「言語社会学」的語義史研究と同一の密度をもって、しかもなんといっても自国語ほどには語義史に通じていない外国語について完遂しなければならない、と重々自覚していたにちがいない。ことは、英訳諸聖書をただ手にとって見て、表紙の写真をうやうやしく掲げ、『シラ』11: 2O, 21、『コリントT』7: 20、および『箴言』22: 29、たった三カ所の訳語一覧表を提示すれば済むといった、いうなれば「没意味文献学」の作業ではない。ある箇所に語形calling, kald, kallelseが当てられているかどうかではなく、その語calling, kald, kallelseがまさしくその箇所にそれぞれどういう意味で当てられているのか、call(呼ぶ)の動名詞として単純に「呼ぶこと」だけの意味か、kaleōから派生したklēsisの訳語として「神の召し」という宗教的意味をどの程度純粋に含むか、そのうえ「世俗的職業」の意味まで併せ持つにいたっているのか、個々の用例について網羅的に調べていき、ルターにおいては『シラ』11: 20, 21 で起きた事件が、どこで、どのように起きて、Beruf相当語が誕生したのか、あるいは、calling, kald, kallelseが、それぞれいつ、どこで、どのように「意味変換」をとげ、Beruf相当語になったのか、を各国語ごとに、各国の翻訳者について、突き止め、立証しなければならないのである。その点にかけて、『コリントT』7: 20のstateがcallingに代わったという事実が確認されても、一概にルター的な用語法から「ピューリタン的な」用語法に「進んだ」とはいいきれない。そのcallingの意味しだいでは(つまり、そのcallingがまだ「世俗的職業」の意味をまったく含まなかったとすれば)、「ルター的な用語法stateからかえって原文のklēsisに忠実な「神の召し」(ルターの用語法では「第一種」)に「戻った」といえないこともないからである。したがって、@イングランドの「言語ゲマインシャフト」において語callingが当時一般に「神の召し」と同時に「世俗的職業」の意味も帯びて用いられていたという事実が、当時の英語語彙一般の語義に通じた学者により、語形callingが『コリントT』7: 20に当てられた事実とは独立に証明され、そのうえでAまさにその語義のcallingが『コリントT』7: 20に適用された、と立証されなければならない。
ヴェーバーとしては、かりに16世紀のイングランドにおけるBeruf相当語の歴史的創始が、かれの研究主題であったとすれば、あるいは「倫理」論文の研究主題にとって枢要の位置価をそなえていたとすれば、ちょうど「中世商事会社史」研究のために古イタリア語、古スペイン語を習得して法制史文献を読みこなしたように、あるいは「1905年ロシア革命」が勃発すると、数週間でロシア語をマスターして現地から届く新聞に読み耽ったように、このばあいにも万難を排して古英語の語義史研究に没頭し、自分で@の証明もなしとげたにちがいない[8]。しかし、再三述べているとおり、この第一章第三節注3第[6]段落の論点には、それだけの価値関係も位置価もなく、その意義はいくえにも限定されていたし、ヴェーバー自身その限定をよくわきまえて言明していた。そこで、かれとしては、「にわか仕込み」ではとうてい無理で、他方「倫理」論文にとってはさして意義もない@へのExkurs
(「道草」)は避け、賢明にも、英語を母国語とする碩学マレー博士が語義と用例の研究を集大成した大辞典OEDの記事に依拠するのが最善と判断したのであろう。そうすることによって、ドイツともロマン語系諸国とも歴史的・社会的条件を異にし、統一王国として教皇庁から独立する蠕動をへて、王室も英国国教会の公認英訳聖書を求め、直接間接、肯定的また否定的に翻訳/編纂に干渉する16世紀イングランド特有の歴史情勢のもとで、その変動に見合う一進一退と紆余曲折をへながらも、ともかく語callingが「神の召し」と「世俗的職業」の意味を併せ持つBeruf相当語として普及し、1611年の「キング・ジェイムズ欽定訳」に定着していく流れを大づかみに確認できれば、この第[6]段落では十分であったろう。やがて17世紀の中葉以降、カルヴァン派の大衆宗教性において「確証問題」が前面に顕れ、当のcalling概念が、そのとき初めてルターのBeruf概念も受け入れて「合理的禁欲」の方向で独自に鋳直されていく、という経緯については、それこそ本論で十分な紙幅を当てて論ずると、あらかじめ第[5]段落末尾で断っていたのである。かりにこの注3末尾に、著者が直前の断り書きに背き、みずから英語語義史と聖書史に深入りして延々と論じ、16世紀の諸聖書も「手にとって調べましたよ」とばかり、麗々しく表紙や用例一覧の写真を掲げて証立てでもしていたら、羽入ひとりは表向き「随喜の涙を流す」(本音では「失望落胆して溜め息を漏らす」)かもしれないが、おおかたの読者は、この著者は言表の自己矛盾に無頓着なうえ、軽重の判断がつかない「道草」好きか、と失笑を禁じえないであろう。
ただし、ヴェーバーが注3で実質上提示していた言語社会学的比較語義史の研究方針とパースペクティーフを厳格に適用するならば[9]、@1382年のウィクリフ訳clepingが、どういう意味で「後代の宗教改革時代の語法とすでに一致する語」(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)といえるのか、それが「神の召し」と「世俗的職業」の二義を併せ持つBeruf相当語であったとすれば、いかにしてそうなったのか、Aクランマー監修下の「カヴァーデイル訳」(1535年)で、「ティンダル訳」(初版1526年、改訂版1534年)のstateがcallingに換えられたとしても、そのcallingが「神の召し」という純宗教的意味への「回帰」ではなく、「使命としての職業」というBeruf相当語への「前進」/意味転換であったのかどうか(そうでなければ、「ピューリタン的用法」はもとより「ルター的・伝統主義的用法」の始源ともいえない)、Bルターが『ベン・シラ』11: 20, 21において純世俗的職業を表すergonとponosに純宗教的召しを表すBerufを当てたように、ちょうどそれと同義・等価の事件[10]として、『箴言』22: 29の純世俗的businessに純宗教的callingを当てる、まさにピューリタン的な意訳の事件が、いつ、どこで、どのように起き、さらにいかにして18世紀のフランクリン父子にまでおよんだのか、などの経緯が、やはり問題として取り上げられ、望むらくはそれぞれが注3における『ベン・シラ』事件の取り扱いと同等の密度で、究明されるべきであったろう。さらにいえば、ルター以前のヨーロッパ大陸についても、ボヘミアのヒエロニムスやヤン・フスではどうであったか、ツヴィングリは同じドイツ語圏とはいってもこの点にかけて異なる展開ないし萌芽を示したのか、「再洗礼派」ではどうであったか、など、多岐にわたって問題が提起されよう。これらは、「倫理」論文の第一章第三節第1段落とその三注に、萌芽の形で提示されていたヴェーバーの「言語社会学」的比較語義史の理論視角と研究プログラム――たとえばBeruf/Beruf相当語のような、ある(価値関係性を帯びた)語の語義創造/変遷/普及を、「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的条件とその変動のなかで、ゲマインシャフトを構成する諸個人、とりわけ創始者/翻訳者たちの主体的な「思想」と「生き方」との関連において動態的に捉えていこうとする研究方針――を継承し、ヴェーバーが「倫理」論文でじっさいにやってのけた範囲・「限界」をこえて適用し展開しようとするもので、いうなれば「ヴェーバーでヴェーバーを越える」課題といってもよいであろう。一世紀にもおよんだ粒々辛苦の内在的読解と地道な研究の蓄積を踏まえて、わたしたちはいまやようやく、「倫理」論文を内在的に越え、そうした課題に正面から取り組める地点にまで到達している、といえるのではあるまいか。
ところが、羽入の結論は、(さきほど一部分は本稿6.⑺にも引用した箇所で)こう述べられている。「結論を言おう。彼[ヴェーバー]が『ベン・シラの知恵』11: 20, 21におけるルターの“Beruf”訳の直接の影響を『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の英訳聖書の用例を用いて『倫理』論文中で論じれなかった[sic]のは、現物の聖書を手に取って調べなかったからに過ぎない。もちろん、そこまで調べてしまえば、自分の立論が破綻してしまうことにも彼は気づかざるをえなかったであろう。破綻してしまうことを予感していたからこそ調べなかったのであろうか。ただし、それは学者の取るべき態度ではない。死の前年、ゲシュペルトまで変えるような細かい改訂までしていながら、どうせ英訳聖書にたいする細かい注の部分など、誰も調べやしないと高をくくっていたのであろうか。もしだとする[sic]ならば、そうしたヴェーバーの姿は醜いものでしかなくなる。しかしながら、今となってはもうヴェーバーに向かって何を言っても仕方のないことである。」(44-5)
歴史の多様性にたいする感受性をそなえたまともな歴史・社会科学者にとって、もとよりヴェーバーにとっても、ルター『シラ』訳の英訳『シラ』訳への直接の影響など、問題ではなく、論文中で論ずる必要もない。そうしたことが「問題」となるのは、羽入がヴェーバーの論点を自分の「言霊・呪力崇拝」的「唯『シラ』回路」説のパースペクティーフに移し入れるとき、そういう羽入の脳裏でのみ創成される「疑似問題」としてにすぎない。ところが、羽入は、そのようにして(自分の見当違いから)ヴェーバーを「杜撰」と決めつけても、それだけではまだ満足できないらしい。かれの眼目は、ヴェーバーを「詐欺師」「犯罪者」として貶め、打倒することにある。とすると、「杜撰」と「詐欺」とは、相手を貶める呼称としては共通で、さればこそ羽入に重宝がられ、羽入書のキーワードともなっているが、双方それぞれを取り出してみると、本来互いに相容れない面もなくはない。「杜撰」では「詐欺」ははたらけない。少なくとも巧みな「詐欺」で人を騙すことはできない。そこで羽入は、ヴェーバーを「詐欺師」に貶めたい一心から、A「杜撰説」に加えて、@「詐欺説」の要素も加味し、非難と貶価を増強しようとする。「杜撰」にはたいてい「動機」はなく、ただ「杜撰」といって非難すればすむ。ところが羽入は、それでは気が済まず、「杜撰の動機解明」に乗り出す。ヴェーバーのばあい、「杜撰」は「杜撰」でも、英訳諸聖書をきちんと調べると「自分の立論が破綻する」との「予感」がはたらいて調査をわざと怠った、いわば「狡い杜撰」であったろうと推測するのである。そして、この想像上のヴェーバーの姿に、「学者のとるべき態度ではない」「細かい注など誰も調べやしないと高をくくっていたろう」と非難を投げつけ、「醜い」と決めつける。
ところが、そうしておきながらここでも、さきほどヴェーバーを「専門家が腹を抱えて笑う」対象に据えたばあいと同様、実物のヴェーバーがほんとうに、「自分の立論が破綻する」と「予感」して英訳『シラ』11: 20, 21の訳語調査を手控えたのかどうか、「学者のとるべき」でない「態度」をとったのかどうか、「細かい注など誰も調べやしないと高をくくっていた」のかどうか、(羽入の身の丈には合った)推測を仮説として検証しようとはしない。やはり「今となってはもう……何を言っても仕方のないこと」と身を翻し、おそらくは「死人に口なし」と胸をなでおろすのである。このばあいも、相手と理非曲直を争う、あるいはザッハリヒに事実認定を争う、というのではなく、推測のみで想像上相手の姿を「醜く」描き出し、そう書き連ねることでみずから「溜飲を下げ」、あわせて「逆恨み」読者の拍手喝采を期しているのであろう。前例と同じく、ルサンチマンにねざす「学問上の叛乱」劇の一幕というほかはない。
つぎに羽入は、「ヴェーバーのこうした杜撰さは当然、資料の読みそのものにも現われてこざるをえない」(45)とする。「英訳聖書を実際には参照していなかったばかりか、唯一の典拠としていた肝心のOEDの記載自体もヴェーバーは誤読しており、しかも自分のその誤読を根拠として、英国における『Beruf =tradeという意味でのピュウリタン的な“calling”概念の起源』を論じている」(45)というのである。羽入としては、これで「駄目を押す」つもりなのであろう。
では、その「誤読」の箇所とは、どこであろうか。ヴェーバーは、確かに、「イングランドにとっては、クランマーの聖書翻訳が、Beruf =tradeという意味でのピュウリタン的な“calling”概念の源泉 Quelleであることを、すでにマレーがcallingの項目で適切にも認めている」と述べ、「すでに16世紀の中葉、callingはこの意味に用いられ、すでに1588年には『不法な職業 unlawfull calling』、1603年には『高級な』職業の意味でgreater callingといった語が用いられている(マレーの上掲箇所を参照)」(45, GAzRS, I, S. 69, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)として、当の項目からふたつの用例を引用している。この論旨にたいして、羽入は、三点にわたって批判を加える(以下@〜B)。
まず、@OED(第二巻)の項目callingは、T, U, Vに三分され、そのうちの「U.Summons, call,
vocation」がさらに9.†10. 11.に分けられて、それぞれの語義と語源が説明され、用例が挙示されている(63-4)。9.には要するに「神の召し」、†10.には「生活上の地位、身分position, estate, or station in life; rank」、11.には「普通の職業、生計手段、実務、商売ordinary occupation, means by which
livelihood is earned, business, trade」の語義が当てられ、それぞれの用例が列挙される。そのうち†10.では、その語源が、『コリントT』7: 20のギリシャ語klēsis、ラテン語vocatioで、この箇所は、「人が救済に召されたときにいた状態ないし地位を表すが、後に9.の意味としばしば混同されて、神が人を[そこへと]召した生活上の身分 the estate in lifeを意味するようになった」と説明されている。この語源説明のあと、『コリントT』7: 20について、1382年ウィクリフのclepynge、1534年ティンダルのstate、1539年クランマーおよび1611年[キング・ジェイムズ欽定訳][11]のcallinge、1557年ジュネーヴ版state、1582年ランス版のvocation、合計六箇所の訳語が列挙され、そのあとに、1555年から1691年までの俗語文献六点から用例(calling,callinge, Calling)が引用されている。そして、そのあとに11.「そこからHence」として、上記「普通の職業……」の語義説明がつづき、「この語義の語源も、しばしば上例[†10.]と同じように説明されるoften etymologized in the same way as prec.」と付記されているのである。
さて、羽入は、11.劈頭のこのHenceは、†10.の記載全体あるいは語源説明を受けるのであって、「ヴェーバーの言うように、語義†10.における用例の一つに過ぎぬクランマー聖書からの引用のみを指しているのではない。したがって、『[英国にとって、]クランマーの聖書翻訳がBeruf =trade という意味でのピュウリタン的な“calling”概念の起源であること』をOEDがcallingの項で『適切にも認めている』などというヴェーバーの主張は、成り立たない」(48)と断定する。しかし、ヴェーバーがいったいどこで、「語義†10.における用例の一つに過ぎぬクランマー聖書からの引用のみを指して」「クランマーの聖書翻訳がBeruf =trade という意味でのピュウリタン的な“calling”概念の源泉である」と「主張」したであろうか。これも、好都合に「ヴェーバーの主張」を捏造しておいて、つまり「ヴェーバーの藁人形」を創っておいて斬って捨てる類の操作ではないのか。
じつは、ヴェーバーは、このHenceを†10.の記載全体と解し、とりわけ†10.の語源論を11.の付記が受けて、「普通の職業……」の意味も「地位、身分」のそれと同じように9.「神の召し」との混同から派生したと関連づけて捉えている記述を重視し、そうして初めて、「イングランドにとっては、クランマーの聖書翻訳が、Beruf =tradeという意味でのピュウリタン的な“calling”概念の源泉であることを、すでにマレーがcallingの項目で適切にも認めている」と評価し、さればこそヴェーバー自身、マレーの見解を受け入れることができたと思われる。というのは、こうである。『コリントT』7: 20の用例だけを列挙して、1539年のクランマー訳(ないしはクランマー監修下の「カヴァーデイル訳」)で初めて原語klēsisに語形callingeが当てられた事実を挙示しても、当のcallingeが、まだ†10.「世俗的身分」ないし11.「世俗的職業」の意味を含まず、もっぱら9.の「神の召し」の意味で用いられたのかもしれず、それでは「ルター以前への逆戻り」でこそあれ、なんら「ピュウリタン的な“calling”概念の源泉」を証明したことにはならない。語形callingeが、当時すでに†10.「身分」ないし11.「職業」の概念を表示し、その語義のcallingeが一般に、俗語文献でも用いられて、それが『コリントT』7: 20にも当てられた、あるいは『コリントT』7: 20に当てられた語形callingeは、確かに†10. ないし11.の語義を含んでいた、と証明されなければならない。そして、その証明のために、16世紀中葉のイングランド「言語ゲマインシャフト」で「妥当なもの」として通用していた語義「諒解」を、俗語文献も渉猟して調べ上げることは、英語を母国語とせず、古英語の語義史には通じていなかったであろうヴェーバーには、にわかには実施困難で、ここでは(この注3第[6]段落の限定された論点にかんするかぎりは)むしろ、16世紀についても語義と用例を系統的に蒐集/分類している『歴史的原理に則る英語大辞典』に依拠するのが最善で、賢明な判断であったにちがいないのである。
OEDのマレーの記事は、ヴェーバーの要望に確かに「適切に」応えている。語義を9. †10. 11.に明晰/判明に(語義「諒解」の流動的相互移行関係を視野に収める「言語社会学」的観点から見れば「理念型」的に)分類し、9.から†10. 11.が派生する語源関係(「言語社会学」的には「流動的移行」関係)も明らかにし[12]、なによりも、9. については18例、†10.については (クランマー訳と欽定訳を含めて) 13例、 11.については9例の具体的用例を蒐集/挙示して、「言語ゲマインシャフト」における当該語義「諒解」の広がり/普及を(ヴェーバーも独自に調べても叶わなかったであろうように)証明しているからである。それゆえ、クランマー訳と欽定訳とのcallingeは、11.ではなく、†10.の用例中に数えられているにもかかわらず、それがやがて11.の語義も帯びると類推でき、後代の「ピュウリタン的な“calling”概念」から遡れば、その「源泉」であると認めることができる。そう認定できれば、この注3第[6]段落に当てがわれた、限定された論証の課題は達成され、あとは「道草」を食わずに本論で、当の“calling”概念が「世俗内禁欲」「禁欲的合理主義」に編入され、鋳直される経緯と帰結を、集約的に分析するのみである。ヴェーバー自身も、†10.の用例中に「クランマー訳」が挙示されいるからといって、そこだけに飛びつくというような(羽入が羽入らしく短絡的に推定しているような)まさにそうした短絡を犯すはずはなく、上記のように(研究における「規範的格率」と「経済的格率」との「せめぎあい」のなかで)OEDに依拠し、賢明に自分の足らざるところを補い、「クランマーの聖書翻訳が、ピュウリタン的な“calling”概念の源泉である」と「適切に」立論したにちがいない。
すでに丸山尚士の第二寄稿が指摘しているとおり、現実の「言語ゲマインシャフト」において「語」られ、「諒解」をとげられる語彙の「意味の違い」は、それ自体としては明晰/判明ではなく、「流動的移行」の関係にある。現に羽入書も、本稿14.冒頭に引用した「結論」のなかで、学術書としては珍しく、「論じられる」を「論じれる」、「もしそうだとするならば」を「もしだとするならば」と記しており、現在進行中の「流動的移行」傾向を反映している。辞典(少なくとも「歴史的原理に則る大辞典」)とは、現実に進行した「流動的移行」関係にある用例群を蒐集し、あとから明晰/判明な「理念型」的区別を立て、これを規準に用例を分類――つまり、個々の用例を相対的にもっとも近い項目に内属させ、その欄に記載――したものであろう。辞典の区別が先に「制定」されて、現実の用例が(あるいは当該語を発する行為者が)その「制定律」に「準拠」するのではない。「言語ゲマインシャフト」は、「欽定oktroyieren」ないし「協定paktieren, vereinbaren」される「制定律」「制定秩序」をそなえた「言語ゲゼルシャフト」ではないのである。
[1] 羽入は、フランクリン父子のこのcallingが、ルターですでにBerufと訳されていなければならず、そうでなければ「倫理」論文の「全論証構造」が崩壊する、という奇想天外な「アポリア」を持ち込むが、この問題は、ここでは立ち入らず、本稿(その2)で再度取り上げることにしよう。
[2] とはいえ、筆者はなにか、羽入の向こうを張って、ヴェーバーが英訳諸聖書をことごとく手にとって調べた、と主張するわけではない。ヴェーバーの調査がどの程度のものであったのかは、よく分からない。ただ、この注3第[6]段落にかぎっては、OEDに依拠したことに、後述のとおり正当な理由があり、それだけでも十分であったと思う。ここでは、羽入のこの「推論の根拠」⑴が、「パリサイ的原典主義」に依拠して相手を貶める些事拘泥の言いがかりにひとしく、根拠の体をなさない、というまでである。
[3] というのも、「意味」を豊かに汲み、「論理」的にしなやかに思考するという研究者として必要な力量を欠き、学問性から「逸脱」しているので、かえって「原典」や「語」の外形にのみ過剰にこだわる「過同調」に陥らざるをえないのであろう。
[4] この点にかんして、筆者は拙著『ヴェーバー学のすすめ』で、「かりにOEDの記載に誤りがあったとしても、その責任はOED側にあり、その件でヴェーバーの責任を問うのは本末転倒である」という趣旨の立論をして、後に丸山尚士から批判を受けた(丸山第二寄稿参照)。拙著執筆時にも「例によって針小棒大な議論で、おかしいな」と感じてはいたが、「ジュネーヴ聖書」の成立経緯にかんする事実関係を調べる余裕がなく、つい、こういうときによく使う「一歩譲ってかりに……としても」という論法で片づけてしまった。不用意であった。丸山の批判に感謝し、自己批判して訂正し、OED関係者ならびに読者にお詫びする。OED最終巻(第20巻)の文献表には、New
Testament の項目にGeneva 1557、Bibleの項目にGeneva 1560と記載されている。
[5] なぜ「ジュネーヴ聖書」が、1557年版から1560年版にかけて、『コリントT』7: 20のstateをvocationに改めたのかは、興味深い問題である。確かに、語形はヴルガータから採ったのであろう。さりとて語義上も単純にカトリック的用法に回帰したのであろうか。vocatioは、呼ぶという意味の動詞vocōの完了受動分詞から派生した語で、伝統的には「聖職への招聘」に限定して用いられていた。しかし、20世紀には、たとえば「社会学の現実的課題La vocation actuelle de la sociologie」(G・ギュルヴィッチの主著のタイトル)というふうに、世俗的な使命/課題の意味にも用いられている。とすると、歴史的にどこかで、「聖職への」という制限が解除され、世俗的職業にも適用されるようになったにちがいない。その萌芽が、なんらかの形でこの「ジュネーヴ聖書」(1560年版)に現われたとしたら、早過ぎるであろうか。当該聖書の欄外注、およびOEDの“vocation”項目を調べてみるとどうであろうか。英語聖書史の専門家のご教示をえたいところである。
[6]中辞典には中辞典の効用があり、中辞典一般を大辞典に比して貶価するのではない。国語学者も、中辞典の効用を学問上も認めて、柔軟に使いこなしているのではあるまいか。
[7]これは羽入が、ヴェーバーを自分のパースペクティーフに移し入れ、「おのれに似せ」て、「言霊・呪力崇拝」ゆえに語形に埋没する没意味「国語学者」に仕立てた規定といえよう。
[8] 拙著では、この点を、一次資料を最善とする規範的格率と、研究上の経済という合目的性の格率との「せめぎ合い」の問題として論じた(84-6ぺージ)。
[9] ここで、「法廷論争」とは異なる「学問論争」固有の課題に移る。つまり、「学問論争」では、「弁護」「特別弁護」すべき「被告人」への根拠ある学問的批判は、たとえ「被告人」の不利となっても避けてはならない。
[10] 逆に、もっぱら世俗的職業を表していた語が、あとから「神の召し」という宗教的意味を帯びてBeruf相当語になる、というばあいも、論理的には考えられないことはないが、歴史的にはありそうもない。
[11] トマス・クランマーは、1556年に、メアリI世によって火刑に処せられているから、“1539 Cranmer and 1611, in the same callinge,
wherin he was called”というOEDの記述は、このように解すべきであろう。この点については、ヴェーバーの「クランマーの聖書翻訳」という叙述に関連するので、後で取り上げる。
[12] 羽入は、「0EDによる『世俗的職業』としての“calling”概念の成立の経過」(48)を、約三ぺージにもわたって延々と「定式化」したあと、「ヴェーバーによる『世俗的職業』としての“Beruf”-概念の成立の説明と構造が酷似している」として「ヴェーバーは0EDのこの部分をヒントとして“Beruf”に関する自分の語源学的議論を組み立てたのかもしれない」と類推している(48)。しかし、宗教改革の思想的経過から、「現世の客観的秩序」、そのsubdivisionとしての「身分」つぎに「職業」が、順次宗教的に意義づけられ、そうした概念に見合う語がつくられる、という「概念−語義」の変遷を考えれば、双方が酷似するのは当然であって、「語源学的議論」に視野をかぎり、その枠内でどちらが「原型」かを論じてみても始まるまい。
[13] OEDの 項目9.のほうには、用例中に“1535 Coverdale Rom.
i. 7 Sayntes by callinge”との記載があり(63)、マレーが1535年のカヴァーデイル訳を知らなかった、あるいは単純に無視していた、というわけではないことが分かる。現行第二版最終巻(第20巻)の文献表にも、Bibleの項目に、Coverdale 1535, ‘Matthews’ 1537, Great or Cranmer’s 1539”と記載されている。マレーは、なにか理由があって、『コリントT』7: 20については1535年「カヴァーデイル訳」を採らなかったのではあるまいか。こうした問題を慎重に調べることこそ、文献学者の仕事ではあるまいか。